大きいキルトを作るに際し.6(続・番外編)

私に、 メールやお手紙を下さった皆さんの中では
「先生に習っていないこと」を気にしている方が、本当に多かったのです。
それはもう、なんだか、隠れキリシタンのごとく、 自分がやっていることが、まるで世間では異端とされているもの、公には出来ないことをしているかのように、息をひそめている様子は、 悲しいほどだった・・・。

だから
わたしの、自己流について書いた一節なんかが
「勇気が出た」
「自分に自信がもてるようになった」と、 少なからず慰めになったのかも知れません。
でも確かに、その気持ちはわかる。
考えてみたら、誰にも習わなくたって、物を作っていいわけだけど、それでもやっぱり先生について学ばなければ
なんだかそれは正統派じゃないような、邪道なような気がしてしまう。
きっと、どんな分野でも、誰でも同じ、 多分、一人でやってる孤独感がそうさせてしまうんだよね。
私も、今でこそ開き直っているけれど、やっぱり以前はなかなか大きな声で、誰にも教わっていないことを自慢する気にはなれなかったもん。
でも、みんな、そんなこと、もう気にしなくていいんだよ。
だって、絵を描く画家に資格がいらないように、ものを作るのに、身分や肩書きなんて必要ないのだから。
先生ったって、ちょっと経験がいっぱいの、おばあちゃんの知恵袋的なものに過ぎないって、まぁ、言えなくもないし。
いろんなやり方の先生がいるし、答えは決してひとつじゃない。
意外にも自分でいろいろやってみたら、昔からの伝統より最先端技術の方が結果的に良かった、なんてこともあるかも知れないしね。
ま、そんなこと言ったって、 そりゃぁもう、経験豊富な先人の教えは、尊いものであるのは事実。
とりあえず、人に教わることの一番のメリットは、何と言ってもその手っ取り早さ。
自分一人でやっていたら、1年かかってやっと見つかったものが、先生に教われば一瞬なんだからね。
でも、そもそも、人に「物作りを教えるって、必要なことなのか?」 と
小規模ながらそういうことをしている自分自身にも、この機会に自問してみたのです。
これは私の個人的な意見だけど、
教えることは、少なからず「影響を与える」行為のはずだから
「直接的な教え」は、なるべく控えた方が良いのではないか、と思うのです。
私は、今自分がやっていることは、単なる「案内人」だと思っているの。
そうそう、
昔、まだ幼児だった頃のペンちゃん(娘)が、脚がいっぱいある、それはそれはファンタジックなものすごく可愛いテーブルの絵をいつも描いていたのだけど
ある日私が、遠近法で見た時のテーブルの描き方を教えたら、2度とあの可愛いテーブルは描かなくなってしまった。
ペンちゃん自身は、大人みたいなカッコいいテーブルが描けるようになって喜んでいたけど、私は後悔の念と、苦い思いを噛み締めた・・・。
つまり
教える側は、踏み込んではいけない領域を常に意識すべきで、何か大事なものを捻じ曲げるように教えてはならないと思う。
特に子供や独自性を強く持った人には余計な「指導」なんてしないことよ。そして
教わる側は、習得したものを一度自分の中で消化して自分のチカラで反芻する心構えが必要。
教わったものをそっくりそのまま踏襲するのは職人の世界にのみあるべきで、 趣味で自由に作る場合や、アーティストを目指す人は、先生の影響をそのまま自分のものと錯覚しないで、最初はまねでもいいからそこから少しずつ自分を発見していかなければなりません。
わたしが最も重要だと思って意識していることは、 何か作る時に、「自分にしか作れないものを作る」ってこと。
でも、不思議なことに自分は自分であるにも係らず、「自分らしさ」っていうものは、なかなか自分ではわからないものなのよね・・・。
「自分らしさ」っていうダイヤモンドを発見するまでには、実際結構な時間を要するもの。
そのダイヤが埋まっている鉱山がゴールだとすると、そこに辿り着くには2本の道があって
一つは、険しく長い道のりなんだけど、道中には珍しいものや美しいもの、新しい発見なんかがあって、時間はかかるんだけど、のんびりと一人で気楽な道。
もうひとつの道には、ちゃんと道案内人がいて、着実に短時間でゴールまで導いてくれるけど、案内人の背中しか見なくなって、美しい風景には目を留めなくなってしまうし、しかもその案内人が、別の違う山に連れて行っちゃう可能性もある。
実際に私が思うには、ふた通りのアプローチがあって
一つは、誰にも教わることはせず、影響を受けるのを嫌って人の作品もあまり見ないし、あくまで自分の「内側から自分を見い出す」方法。
もう一つは、誰かに教わったり他者の作品を見て研究したり模倣したりしてみて、そこから自分との違いや共通点を見つけて、「外側から自分を見つける」やり方。
前者は、得るものも深いけど、ひたすら時間が掛かるから、つらいね・・・。
後者は短時間で辿り着ける可能性が高い反面、教わったことを、一度自分の中で消化しなおして、自分流に形成しなおすっていう高度な技が必要。
結論は、
習うのも良し、習わないのもまた良し。
どちらでも、性格に合っている方を選べばいい。
だから、習っていないことを気に病む必要は全くなく、時間をかける覚悟があるなら、独学ほど実り多いものはないと、わたしは思う。
もしも教えを乞いたいと思う先人に出会えたのなら、それはものすごく幸運な人だな・・・。
ちなみに私は前者で、厳しく、歩みはのろのろなんだけど、道は無数にあって自由でしがらみや束縛もない。
そーねぇ、道というよりは、広々とした大空を飛んで回って、雲のすき間や木々の間から、キラッと光る自分を探しているような感じ。
見つけたら、すぐさま急降下して持って帰り、ブリリアントカットにして磨いて宝石箱に大事に仕舞っておくの。
いろいろな所に、それは埋まっているんだよね。
だからいつも目を凝らして、探している、「自分らしさ」をね。
ずい分抽象的でむずかしい言い方しちゃったけど、実際は、先生に習うのはそれはそれでとても意味のあることだし、一人でいろいろ自由に作ってみるのはさらに素晴らしいことだし、例えば 私が売っているような材料がセットされたキットみたいなものを好きでたくさん作り続けていたら、ある日光が射すように自分の好みや求めているものがはっきり見えてきたっていう話も聞くから、それもやり方のひとつかも知れないね。
導入部は、自分が心から楽しいと思える物を作ればいい。
そうやって場数を踏んでいくうちに見えてくるものこそが、実は核心を突いていて、どんな「先生の教え」より価値があるのだと、私は思います。

ところでみんな
「物を作る」なんて言ったって、それは展覧会みたいな所で見るすごく大きくて芸術作品みたいなのを作れる人の話でしょ? って思っていたんじゃない?
自分の作っているものは、ティッシュケースやコースターみたいな、小さくてどうでもいいものだから、そんなレベルじゃないって・・・・
いえいえ、そんな風に思ったあなた、 そこには大きさや密度の違いはあっても、レベルの高低なんてないの。
大きな会場で人に見てもらう為の作品作りは、もちろん壮大な創作活動だけど、日用品だけを作る人だって立派なクリエイター。
私から言わせれば、そこにこそ難しいことがいっぱいあって、出来の良し悪しが如実に表れるもの。
それに、すごい大作キルトを作れる人は、小さな日用品を作る難しさも知っている人が多い。
それを考えると、簡単そうに見えるものにこそ複雑さがあって、実はやってみると出来ないし、 一瞬どうでもいいと思える物にこそ、 『オリジナリティーの追及』が必要なんだってことの証し。
それこそが物を作ることの唯一無二の目的で、企業のデザイナーなんかは、みんなそこに時間もお金も費やし、
苦労していろいろなものを作っている。
真の自分らしさに辿り着く方法は、きっと一人一人違っているから、誰も(もちろん先生も)教えてなんてくれない。
結局は自分次第なんだよね・・・
デザインや色の勉強だけしてればいいと思ったら、そんなのまだまだ浅瀬でピチャピチャ水に触っている赤ちゃんみたいなものだってわかったのは、 ずいぶん歳をとってからだったな・・・。
くーー    おそい・・・
でも、今はね、 遅くてもいいと思ってるの、それで。

だって、それが私だもん。
こうして、ずっと長い文章を書いていたのも、読んでくれている誰かに向かって言っていたのじゃなくて
本当は、わたし自身に語りかけていたのね・・・。

さて、みんな、今日も何か作っている?
多分ね、そこにもダイヤが埋まっていると思うわョ。
見つかったら、きれいに磨いて、大切にしまっておいてね。
決して、人のと比べたりしないで。

 

お  わ  り

 

 

 

 

2012-12-28 | Posted in 読みもの | タグ: Comments Closed 

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